タミー先生
中学校卒業までに僕の担任をしてくれた先生は5人しかいない。
小学1年生から数えたら都合9年間あるのに5人だけなのだ。
僕が住んでいたのは田舎であったが、過疎地というほどではない。
小学校は1学年120人ほどいたし、中学校は1学年400人近かった。
そういうことから考えても9年間で担任が5人というのは極めて少ない数字と言える。
タミー先生は僕の中学のときの担任だ。
恩師とは言いたくないが、間違いなく良い先生だった。
今の世の中では絶対に許されないが、中学卒業後に家に招いてくれて、麻雀の相手をしてくれた。
タミー先生の年齢は30代前半であり、熱血な部分もあった。
調子に乗ってタミー先生を呼び捨てにしていた生徒にビンタをし、説教をした上で改心させ、最終的に生徒会に立候補させるまでに至ったというエピソードがある。
そしてその生徒は生徒会長になった。
今では完全にアウトな指導なのだが、その生徒は「タミー先生のおかげで自分は救われた」と言っていた。
呼び捨てしたことをどう指導したら、生徒が生徒会長を目指そうとするのか?
僕には全く解らないエピソードだった。
その謎のセンスが恩師と言いづらくさせる要因だ。
ただ良い先生であることには間違いがなかったので、嫌いな人ではなかった。
修学旅行迫る
中学3年生のメインイベントといえば修学旅行だ。
修学旅行で起きた凄惨な出来事に関しては以下の記事で触れている。
maruneko-cannot-sleep.hatenablog.jp
今回触れるのは修学旅行前の話だ。
僕たちの学校は修学旅行の練習があった。
(どうもこの修学旅行の練習は僕たちだけの学校に限ったものではなく、昔は結構行われていたらしい。)
都会育ちの方や令和を生きる方には全く意味が解らないと思うので、順を追って説明させていただきたい。
まず前提として僕たちの学校は治安があまりよろしくなく、人の話を全く聞かないヤツが多数いた。
何しろショベルカーで登校をしようとする人がおられる学校だ。
そのような輩をある程度調教しておかないと修学旅行が目も当てられない状況になってしまう。
おそらく学校側はそう考えたわけだ。
何しろこぞってヌンチャクの練習をし始める集団がおられる学校だ。
そして先生方にとって修学旅行で1番の難所はどこかと言えば移動である。
新幹線に乗せてしまえば取り敢えずは何とかなると先生方は考えたのだ。
そう、修学旅行の練習とは新幹線に乗る練習であった。
そこまでしないことには、この集団が大人しく新幹線に乗れるとは思っておられなかったのだろう。
彼らが築き上げてきた信頼と実績を舐めてもらっては困る。
しかしこの練習が想像を超えるほどに意味が解らないものになるとはこのとき誰も予想だにしていなかった。
後編に続く
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