真夜中の弁証法 (2)
男は雪隠の陶器を抱いていた。
陶器の中の水面が涙で濡れた情けない男の顔を映している。
血管をどす黒い液体が巡り、細胞のすべてが抗体反応をしているような感じを受けた。
逆流する苦しみを受け止めることが出来ず、男は嗚咽をこぼしながら汚れた咆哮を繰り返した。
もはや一滴の水分もなくなるとやっと男は自分の吐息が聞こえるくらいに落ち着くことが出来た。
支点をなくしてしまったかのようによろけながらベッドの方へと歩みを進める。
ほんの僅かの距離ではあるが、呼吸が乱れる。
やっとのことでベッドまでたどり着くと、身体を内旋させながらマットレスに倒れこむ。
暫くして男には自分の鼾が聞こえた。
しかし肉体と意識の動きが乖離していることに気づくか気付かないかの段になり、男は心ともなく自分の持つ全ての感覚器官を停止させた。
それからは黒い海に果てなく沈んでいくだけであった。
男の肉体の横を大きな魚が通り過ぎる。
ほとんど光を通さない深い深い海だった。
僅かに残る光の筋がゆらりゆらりと揺らめいているのを下から見入ることができた。
どれくらい時間が経ったのだろう。
気がつくと男は温泉街にいた。
あたりにはもくもくと湯気が立ち昇っている。
浴衣を着た若者たちが男の存在に気付かないかのように通りを行き過ぎる。
男はどこへ向かえばいいか解らないまま、大通りを目指す。
けれどもどれだけ歩こうともそこがどこであるかわからない。
布に絵の具が滲むように男の身体の中に疲労感が広がる。
フラフラと足湯が湧く場所まで進み、意味も解らず足首まで湯に浸ける。
男は救われた気分になり、開放感から堪らず声が漏れる。
僅かに黄色がかった湯の中から酸素が逃れようと湧き上がる。
男はそこに魚影を確認した。
40℃の液体の中で魚が揺れている。
気付けば足の角質は魚たちによって削られていく。
それら角質の全てがなくなっても、魚たちは散会することはなかった。
それどころか魚たちが重なり合い、より大きな魚影を作った。
1つになった魚影が男に近づき、男とつながったとき、その生き物は人魚になった。
中年男性の人魚である。
男はそんな自分の姿を見て、形容することができない感情に飲み込まれた。
恥じらいから赤ら顔になっていながらも、やり場のない怒りが心の中を渦巻いている。
こんな風になってしまって自分はこれからどうすればいいのかという気持ちだった。
ただ同時に不思議な安堵もしていた。
もしも魚が自分の頭皮の角質を取っていたら今頃はハンギョ○ンになっていた可能性があるのだ。
確かに可愛いがハンギョ○ンになってしまうと就職をさせてくれる会社は数が絞られるからである。
そして男は目を覚ました。
消化できない食べ物が食道の奥を刺激し始めたのだった。