真夜中の弁証法
夕景には少し早いのに角膜が暗く世界を映し出している。
左手の指先に小さな痛みが走った。
男は塀のそばを歩くときに指を這わせてしまう癖がまだ抜けない。
今だって塀の荒い塗装箇所が中指を突いた。
皮膚には白く摩擦の証拠が残った。
けれどもその小さな痛みはより大きな痛みの中に埋もれて感じられなくなっていく。
男は自分の臓器という臓器が過剰な収縮をしているような感覚を覚えた。
そして血の代わりにタールのようにどす黒い液体が血管を流れているような不快感に男は餌付くのだった。
空嘔が抑えられない。
男は塀の先に虚ろな視線を送る。
いつもの十字路がある。
街路ではあるが車の通りはない。
住宅街の奥まった場所にある十字路だ。
普段ならばこの黄昏時には定年を過ぎた人たちが自転車をゆっくりと蛇行させている場所である。
男は塀によって視界が遮られた場所に思いを馳せる。
そしてその白昼夢の中に決まって現れるのは千里を走る馬であった。
その馬はモノクロームの意識の中にあって赤々と燃えるような躰をしていた。
そんな馬があの曲がり角から現れたらと夢想をしてしまう。
赤毛の馬と自分がぶつかり合えば、衝撃で上半身は男の姿を、そして下半身は炎のような馬の胴体と四肢を持つ生命が誕生するのではないか。
そんな風に考えるだけで、男は興奮で呼吸が粗くなった。
血液の巡りを速めているその瞬間だけは男は自分の内臓が朽ちていくことを忘れられた。
どこか遠い空で鳥の鳴く声が聞こえる。
けれども待てよ。
男の神経伝達物質が異なるルートで脳内を巡り始めた。
自分がその新たに誕生した生き物の上半身になれる保証はどこにあるのか。
男の視線はさらに下がり、アスファルトを捉える。
アスファルトはまるで脳溝のような皺をたたえていた。
一度生まれた不安は露と消えるには時間がかかる。
縺れようによっては自分が下半身になってしまうのではないか。
何しろ毛色の赤い馬は自分よりも動きが疾いわけで、自分がその馬の後ろからぶつかる可能性のほうが高いはずだ。
それは余りにも詮無い。
空嘔が強く感じられたせいもあってか、男は下唇を噛んだ。
男は体を巡る毒素と不安の種に気が遠くなりそうになった。
それでも心を持っていかれないように前傾姿勢を取ろうとした。
そして普段よりも重く感じる身体を引き摺りながら、家路を急ぐのだった。
いまだ空には夕焼けが描かれておらず、いつの間にか遠くで鳴いていた鳥の声は聞こえなくなっていた。