ブリーズ・イン
吸い込む。
肺の中に酸素を巡らせる。
新鮮な空気を吸い込みながら、男は一歩一歩あゆみを重ねる。
頂上まであと少しだ。
思えば無謀なことを思い立ったものだ。
なぜ、こんなところに登ろうと思ったのだろうか。
きっとくだらない日常からほんの少し離れたかったのだろう。
充分に着込んできたつもりだったが、12月は寒い。
吐き出した息が白いもやを作る。
体も疲れを感じはじめた。
けれどもその疲れこそ男が求めていたリアリティーだった。
温度の感じない日々はあまりにもヴァーチャルであり、脳と心は疲弊しても、肉体が疲れを感じることがない。
だから骨がきしみ、筋肉が悲鳴をあげるということが新鮮であり、「生きている」ということを実感させた。
タバコはとうの昔にやめていた。
胸ポケットには何も入ってはいない。
ただこんな澄んだ空気の中で1本吸いたくなってしまう気持ちはわかる。
きっと至福の1本となるんだろうな。
男は小さな笑みをたたえながら、そんなことを思った。
さぁ、もう頂上だ。
眼前に広がる景色に心を奪われる。
いや、奪われるような心があったことにまず驚いたと言ったほうが正しいか。
AM6:00。
誰もいない空間。
美しいとか綺麗だとかそういうんじゃない。
1日を始めようと街が動き始めている。
人が目覚めて誰かのために働こうとしている。
そんな景色に心が震えたのだ。
バックパックには缶コーヒーが入っていた。
冷めきったブラックコーヒーだ。
買ったときはあんなに温かかったのに。
まぁいいさ。
どうせ細かな違いなんて解るはずもないんだ。
この空間にコーヒーがあるということで彩られるものがあるのさ。
そうして男は缶を開けて、喉を潤した。
音もない世界。
遠くで誰かが生きている。
そんな朧気な感覚に癒やされた。
音がない世界の音を充分に堪能して、男はコーヒーを飲み干した。
さぁ、自分も一日を始める時間だ。
「よっこいしょ」と言って、男はジャングルジムから降り立った。
この記事はフィクションであり、実在する人物・団体とは一切関わりがありません。
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