大いなる自己矛盾
指名が全く入らないエロカッコ悪いホスト曰く、「人間とは理想と現実の不純物である」らしい。
僕も例に漏れず矛盾を抱えている人間である。
このことは以下の記事でも触れている。
maruneko-cannot-sleep.hatenablog.jp
生きることを長く続けていると、引き算の魅力に取り憑かれることがある。
前出の記事ではミニマリズムという言葉を用いていたが、引き算の魅力ということばのほうがしっくり来る。
要するに、僕の行動がかなり限定されているのだ。
必要だと思うことしかしなくなっている。
家族との語らい、ジョギングと筋トレ、仕事しかしない日が多い。
テレビは家族が見ているものを見るくらいで、自分のために見ることはなくなった。
子供の頃は取り憑かれたようにゲームをしていたが、今はそれをするくらいなら仕事に関係する勉強をしてしまう。
そして飲み物は水しか飲んでいないことが多い。
自分で豆をブレンドするほど珈琲が好きだったのに、今は週に2、3杯飲む程度である。
学生のときは、バーテンダーをするほどお酒にハマっていたのに、今はほとんど飲まない。
要するに、娯楽のようなことをしなくなってしまったのだ。
行動の引き算をすることで何やら落ち着くのである。
ちなみに「ベッドとイームズの椅子、本棚があり、そしてミニテーブルの上で珈琲の湯気が揺蕩っている」というのが僕の理想の部屋の状況である。
現実の僕の部屋は奥様の手により物置にされている。
しかしながら、この引き算の魅力に取り憑かれているはずの僕が、ふりかけを愛しているのは大きな矛盾に思える。
ふりかけは足し算か
ふりかけへの熱い思いは以下の記事を参考にしていただけると幸いである。
maruneko-cannot-sleep.hatenablog.jp
御存知の通り、ふりかけはご飯にふりかけていただくものである。
だから一見すると足し算と感じられる。
行動の引き算をすることで安心を得ていた人間が、足し算をして越に入っているのは変だ。
う〜ん、どういうことなんだろう。
自分の行動に説明がつかず、しばし悩む。
しかし、僕はそこで指名が全く入らないエロカッコ悪いホストの言葉を思い出したのだ。
「人間は醤油無しで寿司は食べられない。」
そう言えば、僕はオカズをバウンドさせずにご飯だけを食べることが多い。
白米だけをたべるとき、何もかけない人はあまりいない。
マグロやイカの寿司を食べるときに、醤油をかけない人はあまりいない。
そうか、僕にとってふりかけは寿司における醤油と同じなのだ。
醤油があって初めて寿司は100%になる。
白米だけ食べる僕には、ふりかけがあって初めてお米は100%になるのだ。
そうなると今まで引き算だと思っていたことにも違った見方が生まれてくる。
それは単に引き算ではなく、僕の中の100%を越えたものを100%に戻す調整をしているのだ。
つまり自分の中に100%の基準があり、それを越えたものに対しては引き算を、それに満たないものには足し算をしているだけなのだ。
自己矛盾には理由がある。
そしてそれを解決することで新たな自分の側面を発見することができるのだ。
ありがとう、お米。
ありがとう、ふりかけ。
そしてありがとう、指名が全く入らないエロカッコ悪いホスト。