真夜中の弁証法 (3)
男は仕事場で自分の椅子に腰掛けていた。
疲労感から座っていると言うよりも身体を載せているという感じだ。
への字に曲がった首の付け根がじんわりと痛みが広がっている。
椅子にヘッドレストがないことが疎ましかった。
4月だというのにどんよりと湿った空気が漂っている。
神隠しにあったかのようにその空間には男だけが存在していた。
その場所に男の深いため息が漏れる。
誰もいないのだから承認欲求のためのため息ではない。
体中を毒が巡るようにうごめいた疲労感が気化したものを吐き出しただけだった。
そのため息はどこにも共鳴することはなく静かに霧散していった。
男はまぶたを広げる力すら惜しいほど疲れており、視界には睫毛が映ることもあった。
視野も霞んでいて、意識が現実の世界線上にあるのかわからない。
ふいに給湯室の冷蔵庫が音を立てることがあり、その一瞬だけ男の意識は鮮明になるが、しばらくすると再び微睡むような感覚に陥ってしまう。
もちろん男を苛んでいるのは疲労感だけではない。
週の頭から続く嘔気と瀉腹のせいもある。
常に喉仏の下に何かが詰まっているような不快感があった。
昨夜は汗を掻いて寝たおかげか熱が下がったことが唯一の救いだった。
それでも仕事を終えると、疲労が蓄積されて男は動けないほど深く椅子に沈み込んだ。
気温は高くないが、一日の仕事でシャツが少しだけベタついている。
身体が重い。
足の裏が地面に根を生やしているかのようだ。
そのとき男の中の血流が全て引力に引きずられてすとんと降下するような感覚を覚えた。
体内の音が耳の中に響いている。
いつもの仕事場のいつもの出入り口からどこからともなく大きな蛙が迫ってきた。
全長3メートルといったところだろうか。
ああ、これは夢か、と男は理解した。
男はその世界の中で「何だか嫌な夢だな」と呟いた。
その生き物の表皮には鱗がなく、代わりにヌラヌラとした滑りを纏っていた。
夢の中だというのに疲労が持続している。
男はなぜか裸足だった。
その両生類のような生き物は男の足元で動きを止め、真っ黒な瞳で男を覗き込む。
その目は深海のような暗さがあったが、悪意は一切感じられなかった。
寧ろ男はそこに安堵すら覚えた。
そんな男の心を感じ取ってか、その生き物は静かに腹部の角質を食んでいた。
それら角質の全てがなくなっても、その生き物は離れる様子はなかった。
それどころかその生き物と男が絡み合い、1つの大きな生命となったのだ。
その蛙は男の腹部とつながった。
はたから見れば蛙が描かれたTシャツのようにも見えただろう。
ただその生き物は自分の意志で話すのだった。
それから男の意識は現実の世界線に戻ってきた。
男の周りには同僚がいつものように仕事をしていた。
この記事は当然のことながらフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません。
※ Tシャツ。