いらない授業
炭水化物制限をしていればどれだけ食べてもいいだろうと思ったのが間違いだった。
こんもりとした麻婆春雨を見て僕は思うのだった。
せめてもの言い訳のために筋肉トレーニングを続けているのだが、そのときにワイドショーを流して聞き耳を立てている。
するとあるコメンテーターが「水泳の授業はいらない」という発言をされた。
「あぁ確かに水泳嫌だったなぁ〜」と僕は思うのだった。
何しろ沈む速度では東南アジアでもトップクラスを誇る僕である。
水泳が楽しいはずがない。
ちなみに僕は直進する速度は学校でもトップクラスであったので、水泳の才能がないわけではない。
ただ哀しいかな、息継ぎができないという弱点を抱えていたのだ。
ただことはそれほど単純ではない。
具体的でなくてもいいが、ピュアな子供をイメージしてほしい。
換言すれば欲望にも純粋とも言える。
その子供に好きなことだけをしていいよという指示を出したとしよう。
ゲームをするのも、漫画を読むのも、YouTubeを見るのも、音楽を聴くのも、映画も鑑賞するのも自由だとしよう。
本当に好きなことだけをしていいものとする。
10年後その子供はどう成長しているだろうか。
さまざまな才能を発芽したり、何かのスペシャリストになっているだろうか。
僕はそうは思わない。
もちろん天才的な能力を持つ子供もできるかもしれない。
ただ僕ならば多分自堕落な生活をし、ゲームも中途半端、漫画を読んだり映画を見たりするのも中途半端になると思う。
そのうち好きなことがなくなるかもしれない。
好きなものだけをずっと食べていいと言われたら、野菜を食べるだろうか。
僕ならばそんなことはしない。
学校の授業は何のためにあるのか。
ここでは教育基本法で述べられていることはおいておこう。
面白くもない教科を学ばないといけないのはなぜだろうか。
答えは簡単だ。
人間が自由に生きていたら、おそらく自発的には選択しない知識に触れさせるためである。
その自分では選択しない事柄に触れて興味を持てば、その人間にとってプラスに働くことは言うまでもない。
もしかしたら将来その事柄の専門家になるかもしれない。
自分では選択しない事柄に触れてやっぱりつまらないと思っても、それはそれで価値がある。
自分はそのことが嫌いだということがわかるからである。
そして嫌いなことが解れば、好きなことがもっと好きになる。
学校の授業は意味がないようの思えても、実はさまざまな理由があって設定されているのだ。
したがって一見意味がない授業のように見えても、人生に必ずプラスに働くはずなのである。
この記事は当然のことながらフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません。
※ 学校。
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