多様性の尊重とアクティヴ・ラーニング
アクティヴ・ラーニングという言葉があった。
いや、今も決してなくなった言葉ではないが、数年前の教育界における大流行と較べたら大分聞かなくなったと言える。
それこそ一時期は右も左もアクティヴ・ラーニング一色だった。
アクティヴ・ラーニングとは要するに生徒が主体的に参加できる授業の方法のことだ。
この言葉に影響され、学校の先生たちの一部はアクティヴ・ラーニング教徒となり、革新的な授業を目指したわけだ。
ちなみに現在は「主体的で対話的な深い学び」という言い回しが主流になっている。
しかしどうしてアクティヴ・ラーニングという言葉を聞かなくなったのか。
僕なりの答えはこうだ。
アクティヴ・ラーニングという言葉が大流行していたとき、僕はあるカリスマ教師と話をする機会があった。
そのカリスマ教師はいわゆるテレビに出てしゃべくり回すタイプではない。
赴任する学校全てで生徒や保護者から絶大な信頼を得ており、卒業後も悩みを打ち明けられる人物であった。
しかも授業も超人的な巧さで、東京大学をはじめとする難関国立大学の医学部や法学部に合格する生徒から非常に支持されていた。
そのカリスマ教師がこう言ったのだ。
「そもそも生徒がアクティヴでない授業があるの?」
生徒がアクティヴに活動できる授業は大切であり、そういう点ではアクティヴ・ラーニングという授業法は間違いではない。
ただ生徒が能動的に参加できる授業はしていて当たり前であり、ないことがおかしいのである。
アクティヴ・ラーニングという言葉が用いられなくなってきたのは、生徒が主体的に学べるような授業作りは当たり前でないといけないことであり、わざわざ取り立てて言うことではないと気付いたからではないかと思う。
ないしはただ教科書を読むだけという教師が多く、生徒が主体的に活動できる当たり前の授業が展開されていないというメッセージに気付いてしまったためではないかと思う。
現在、多様性の尊重という言葉が多く聞かれる。
多様性を尊重することは大切である。
そのことに関しては僕は全く否定していない。
ただ多様性の尊重という言葉が存在するということは、現状では多様性が尊重されていないということを表しているわけだ。
さまざまな人が生きる世界の中で、違いを受け入れることは大切であり当たり前なことだと思う。
そして我々が当たり前のように他者と自分との違いを尊重できるのであれば、このような言葉は存在理由を失うのではないかと思うのであった。
この記事は当然のことながらフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません。
※ 学校。
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