人はなぜ作品を産み出すのか
芸術論を語る資格が自分にないことはわかっている。
アメリカで作曲理論を学び、音楽で食っていこうと思っていた時代こそあれど、「食べていけないかもしれない」不安に押し潰されて逃げ出した口である。
自分の周りにいてくれる人に迷惑をかけたくないと思ってしまった小さな人間である。
本物ならば悩まないことに悩んだ時点で僕は偽物だった。
音楽以外の可能性を残した時点で僕に芸術を語る資格などない。
けれども今になっても家族が寝静まったあとでギターを爪弾く自分がいる。
本来並ばせることが適当でない和音を並ばせて、自分の曲を創ろうとしている。
偽物ならば偽物らしく音を創り出す世界線から離れていればいいものを、惨めったらしく薄暗い時間を過ごしている。
たとえ社会から評価をされてなくても、芸術に身を捧げている人たちは僕よりも優れている人間だと感じる。

そんな分際なのに「人はなぜ作品を創り出すのか」という疑問に対して、この年齢になって1つの答えに辿り着いてしまった。
無数の答えがある中の1つの答えであり、正解ではない。
それは音楽だけに命を燃やしていたときには気付きもしなかったことであった。
至極当たり前のことなのにそんなことに気付きもしなかったのだから、本当に木偶の坊であったと言わざるを得ない。
僕は音楽に全てをかけていたときも自分に才能がないことはわかっていた。
音感もリズム感もない。
けれども才能のなさは情熱で乗り越えられると思っていた。
その情熱に淀みが見えたから逃げ出したわけだが。
話が逸れたが、要するにこれから述べることは「天才には当てはまらない」ということが言いたかったのである。

人はなぜ作品を創るのか。
誰かのためだ。
おそらく本物はこの世にたった一人残されても何かを創ろうとする人間だと思う。
けれども多くは誰かのために作品を産み出していると思う。
ここでは愛する人のために作品を産み出すケースについて述べたい。
例えばある曲が5分の長さであったとする。
その曲を完全に味わうのに何分かかるだろうか?
感性にもよるが、決して5分ではない。
聴き手のステージが変わればさまざまな解釈を産み出すこともあるだろう。
そんな曲が10曲、20曲とあったとする。
何が起こるだろうか?
この世の時間でとらえれば、曲自体は合わせて100分くらいのものなのかもしれない。
しかし完全に味わおうとすれば、必要な時間は100分の何千万倍と拡張する。
そしてそうなるとどうなる?
愛する人の持つ時間を作品が超えることになる。
つまり自分がこの世界から去ってしまったあとも愛する人を温め続けることができるのである。
換言するならば、時間を超えて愛する人の生命を彩ることができる方法が作品を創るということなのだ。

5分の曲を創るのに何日かかるかは人による。
けれどもその行為は曲の中に感性の全てを詰め込み、現実の時間を超越するための数少ない手段に他ならないのであると信じている。